沈黙の70年 富山大空襲と孤児たちの戦後



8月13日(木)午後3時58分~4時53分
「沈黙の70年 富山大空襲と孤児たちの戦後」
「戦争孤児」。戦争が理由で孤児になった20歳未満の人の総称だ。昭和23年2月、当時の厚生省が実施した「全国孤児一斉調査」。その結果、第二次世界大戦による戦争孤児は12万3000人余り、富山県内にも427人いることがわかった。しかし、その事実が明らかにされたのは30年余り後のことだった。昭和20年8月2日未明の富山大空襲。米軍のB29が富山市に落とした焼夷弾は56万発以上。死者は約3000人(推計)。米軍が爆撃目標にした市街地破壊率は99.5%と空襲に遭った日本の都市の中では最も大きな被害を受け、多くの子どもたちが孤児となった。
長野県で暮らしている藻谷研介さん(83)もその1人だ。焼かれた富山市の実家跡地や一晩身を置いた松川を息子らとともに訪ね、記憶を語り継いだ。藻谷さんは戦後、縁戚や姉の嫁ぎ先などを転々とし山口県へ。「振り返れば家族再建の70年だった」と振り返る。
富山市郊外の児童養護施設「ルンビニ園」。昭和22年、戦争孤児を寺に保護したのがその始まりだ。卒園生の坂口勝久さん(71・北海道在住)は小田原空襲の戦争孤児。6月、ルンビニ園の理事長・恒田仙英さん(92)に会うため、富山市を訪れた。目的は、同窓会作りだ。同じく孤児で、園時代の旧友・鮫島一さん(70)と共に、県内在住の卒園生を訪ねるが・・・。
焼け跡にたたずむ子どもたち。そんな孤児たちに国はどのような救いの手を差し伸べてきたのか。戦後補償に詳しい立教大学の前田教授は「敗戦で国家の戦争は終わったが、孤児が生きるための戦いはそこから始まった」と語る。
戦争孤児の戦後70年の人生を見つめることで、日本が築き守ってきた「平和」を改めて考える。