第100回 “受験”と深夜放送と~1968年の冬

今年も受験シーズンが来た。この齢になるとなんとも懐かしくて感慨深いが、今現実に高校や大学の入試に向き合っている受験生、ご家族は大変だろうと思う―。
あの頃、高校受験のあの時は一九六八年の冬だった。ちょうどラジオの<深夜放送>の人気が出始めた頃で、勉強するふりをしながら毎晩ラジオのチューニングを合わせるのに苦労していた。というのも、その頃まだKNBではネット放送をしていなくて、遥か東京のニッポン放送にダイヤルを合わせなければならなかったのだ。ただ、これがなかなかキレイに受信出来なかった。『東京は遠い』とつくづく思ったものだ。
ところが、なぜか冬の晴れた夜になると突然電波状況が良くなって、かなり鮮明に聞き取ることが出来た。これは私が使っていたラジオの問題だったのか、あるいは地域的な事情だったのかはわからない。
とにかく、そんな苦心をしながら聴いていた深夜放送は<オールナイト・ニッポン>だった。
<オールナイト・ニッポン>は前年の一九六七年十月に放送が開始されているので、私が聴いていた時期は番組が始まって最初の冬だったことになる。
その頃のパーソナリティでは『ゴーゴーゴー&ゴーズ・オン!』という決め台詞の糸居五郎さん、アンコーさんこと斉藤安弘さん、そして今仁哲夫さんの曜日をよく聴いていた。私は斉藤さんか今仁さんのどちらかは忘れたが、2~3回リクエスト・ハガキを出したことがあって、一度読んでもらってリクエスト曲がかかったことがある。深夜にもかかわらず、嬉しくて飛び上がった記憶がある。
曲はアメリカン・ブリードの「ベンド・ミー、シェイプ・ミー」だった。
今となってはこの曲が“ソフト・ロック”のサウンドだとか分かるが、当時はただの“いい曲”だ。そういえばちょっと前にこの曲を数十年ぶりに聴く機会があってけっこうワクワクしたのだが、それほど良いとは思えず、『あれえ~』と。そんなものかも知れない。
そんなわけで<オールナイト・ニッポン>がメインだったが、ときどき毎日放送の<MBSヤングタウン>も聴いていた。友人から面白いから聴いてみろと勧められたのだが、通称“ヤンタン”と呼ばれたこの番組は若手落語家で売り出し中の桂三枝(現・文枝)の喋りが話題で、確かに面白かったのだが曲があまりかからず、また、関西からの電波は東京以上にノイズが多いこともあって次第に聴かなくなった。
ただ、この番組で初めてフォーク・クルセダースの「帰ってきたヨッパライ」を聴いたことはよく憶えている。翌日、学校で友人たちと『あの曲、聴いたか!』と興奮して騒いだのだった。
ちなみに深夜放送について記すと、TBSの<パック・イン・ミュージック>は1967年7月に放送が開始されていて、深夜放送三大番組!のもうひとつ、文化放送の<セイ!ヤング>は1969年春に放送が始まったようだ。
というのも前述したように、どういうわけか私のラジオでは東京からの放送といっても<オールナイト・ニッポン>以外の受信状態が良くなくて、まるで聴けなかった。ノイズの彼方に時折、声や曲の断片が聴こえる程度だったのだ。
そんなわけで、念願叶って<パック・イン・ミュージック>や<セイ!ヤング>を聴けたのは、上京した71年以降のことだ。そのころ<セイ!ヤング>では土居まさるさんや“レモンちゃん”こと落合恵子さんが人気パーソナリティだった。
ただ、もっぱら聴いていたのは<パック・イン・ミュージック>の方で、当時のフォーク・ブームのなかで吉田拓郎さんが水曜深夜を担当していたこともあり、ほぼ欠かさず聴いていたと思う。
とにかく<パック>はメンバーが良かった。火曜深夜の愛川欽也、水曜深夜の吉田拓郎、木曜深夜の野沢那智と白石冬実は“鉄板”だった。そしてその頃の<パック>には“二部”もあって、木曜深夜二部を担当していた馬場こずえさんの番組ではアメリカン・ロック中心の選曲が良くてお気に入りの番組だった。で、気がついたら外が明るくなっているというわけで―。
うっかり七十年代にまで話は飛んだが、このあたりは後日書くことにして。
それにしても中学三年の冬、勉強するためのBGMとして<深夜放送>を聴いてきたのか、<深夜放送>を聴く“言い訳”に机に向かっていたのか、ま、あきらかに後者だが、とにかくそんなふうに<深夜放送>から流れるロックやフォークやポップスを聴いてきたのだ。振り返ると、あの頃の<深夜放送>というのは“音楽知識の集中講義”であったと、あらためて思う。