第101回 “拓郎経由”のボブ・ディラン

ボブ・ディランがやって来る。
今回で七回目の来日になるそうだが、私はディランのライブをこれまで二回観ている。1978年、初来日のコンサートを大阪で、そして2010年に東京のライブハウスで行われた公演だ。この東京でのライブ・インプレッションは、同じ年の4月15日付けの当コラムでも書いたが、とにかく32年ぶりに観たディランのあまりの老成ぶりに『今回が日本での最後のライブかもしれない・・・』と思ったものだ。
が、あれから4年が過ぎて、もう来ないだろうと思っていたディランが来日すると聞くと、やはり心穏やかにスルーするわけにはいかなかった。そして悩んだ挙句、ディランを観にいくことに決めた。
老化がなんだ!ディランはディランだ!と―。
ボブ・ディランは今でこそ日本での認知度はかなり高いが、私がボブ・ディランの存在を明確に知ったのは70年代に入ってからのことで、1960年代中頃、私が中学生・高校生の頃にはボブ・ディランなんて知らなかった。
それは私だけの話じゃなくて、多くの音楽ファンがそうだったと思う。あの頃、ラジオでボブ・ディランという名前を聴いた記憶が無い。
ただ、ディランの作った名曲<風に吹かれて>は知っていた。ただし、ピーター・ポール&マリーのヒット曲としてであって、作曲者がディランだなんて知る由もなかった。ハーモニーがきれいな、いい曲だと思っていただけだった。
相当大ざっぱに言うと、あの頃ラジオでよく流れていた洋楽はビートルズやローリング・ストーンズ、モンキーズ、そしてたまにジミ・ヘンドリックスとかモータウンのソウル・ミュージックなどのいわゆるヒット・チャートに上がっている曲がほとんどだった。そしてそもそもディランには日本でのヒット曲が無かったこともあって、60年代にボブ・ディランの話題を音楽雑誌で読んだり、曲がラジオから流れてくることはなかったのだ。
では、日本で60年代にディランのアルバムがまったく発売されてないかと言うとそうでもないようで、アメリカで発表されたオリジナル・アルバムの中から日本独自で選曲した編集盤が発売されていたようだ。
で、そのディランのオリジナル盤だが、日本でアメリカと同時期、同内容のアルバムが発売されたのは1968年以降のことだそうで、これじゃヒットも何もあったもんじゃない。
なぜ60年代にディランが日本で受け入れられなかったか?だが、これは推測で書くのだが、ボブ・ディランの声はおよそ当時の歌手たちとは異質の“悪声”であり、その声でフォーク・ミュージックという政治的なメッセージや、哲学的な言葉をまくし立てて吐き出すように唄うわけで、そんな個性的なディランのサウンドを、従来のポップス&ロック観に固まった当時の日本のレコード会社や音楽メディアは、捉え切れなかったのではないだろうか。
つまり、レコードを発売しても売れない、と。
それはまた、当時の日本ではディランが人気を博したあの時代のアメリカ社会を理解するに足るだけの情報が得られなかったということだったのかもしれない。
もちろん、そんな情報不足の時代であっても一部の熱心なフォーク・ファンはレコードを買っていたようだが、所詮ビートルズやモンキーズのセールスとは次元が違うわけで、結果としてごく普通の中学生や高校生はボブ・ディランという名前は知る由もなかった。
そんなボブ・ディランを巡る“お寒い状況”を一変させたのが、吉田拓郎の登場だった。
70年代初頭、深夜放送のDJをやっていた吉田拓郎はボブ・ディランからの影響を熱心に語り、ディランを賞賛した。その結果、吉田拓郎になりたかった我々ギターを弾く若者たちはそこで初めてボブ・ディランを本格的に聴いてみようと思ったのだ。実際、この頃から日本でボブ・ディランのアルバムは売れ始めたようだ。ただ、それでもその頃のディランのアルバムごとの売上げはせいぜい二、三万枚だったようだが、これが今日の日本におけるボブ・ディラン人気の原点だろうと思う。
このような状況はイギリスでも同じだったようで、時代こそ日本よりも早いが、イギリスでボブ・ディランが売れたきっかけは1964年にジョン・レノンがディランを誉めたことだったとされている。
ちなみに、70年代初めの日本でフォークシンガーの岡林信康がそのカリスマ性から<フォークの神様>と呼ばれ、吉田拓郎は<フォークのプリンス>と呼ばれていたが、そのキャッチ・コピーは当然のことながらボブ・ディランの存在から付けられたものだった。
この春、番組では断続的に<2014年春来日ミュージシャン特集>をお送りしていますが、今月8日の放送ではボブ・ディラン1973年のライブアルバム『偉大なる復活』を聴いていただきます。これが名曲揃いで名盤です。どうかお楽しみください。