第103回 「結局どうする“コレクション”」

先日上京した折に友人たちと久々に飲み会をやった。で、例によってグダグダと『最近は何を聴いてる?』とか『あの頃はああだった』とか言っていたのだが、次第に『体調がどうだ』とか『毎日歩いている』とか、健康状態の告白大会になってしまった。
かつては父親や母親が知り合いと繰り広げていた“病気自慢”に苦笑したものだが、何のことはない、我々の世代もそのレベルに近づいているようで、なんだかなあ、と。
そんな話のあと、話題は“収集物の行く末”に移った。今回集まった仲間に共通する収集物はレコードとギターなのだが、つまり、これまで買い集めたレコードとギター―コレクション!というほど立派なものではないにしても―をこの先の老いていく時間の中でどう考えるのか?という話だ。
有り体に言えば、自分が死んだあと、情熱を注いで集めたレコードやギターの処分を家人に任せるのか?、あるいは元気なうちにバッサリと手放すのか?、そしてそのタイミングはいつなのか?といったようなことだ。
はっきり言ってこの手の話はコレクターには禁句で、というのも集めている本人も内心ではこの件についての問題意識はじゅうぶんにあるのだが、では実際にどうすればいいのかとなると容易に結論が出せず、ほぼ判断停止状態だった。しかし、四十代や五十代ならともかくも、六十歳を過ぎるとさすがにこの問題を避けてはいられなくなってきたのだ。
とは言っても、問題は深い。かりに家人に任せてしまう場合、家人がその物の“価値”をどこまで理解しているか?が問題だ。下手をすると二束三文どころか、ゴミに出される不安さえある。中には貴重な物もあったりするわけで、それをゴミに出されるなど言語道断!、化けてでてやるゾ!と。
もちろん、予め“価値”を伝えておくという方法はあるにはあるが、そもそもコレクターの心理として家人といえども入手の金額や方法はあまり言いたくないのだ。そこらあたりの葛藤を乗り越えられるか・・・・。
そして自分がしっかりしているうちにすべて売り払ってスッキリするという手段だが、これはこれで悪くはない。些少にしてもその金額で小遣いやら旅といった別の形で人生を楽しむという手段もあるのだから。
だが、とは言っても、いざ処分するとなると愛着やら執着やらが出てきて迷いが生ずるという、まるでサッカーのように決定力の弱さが露呈することが往々にしてあったりするのが弱点だったりする。
結局、なんだかんだ口々にいろんなことを言った挙句、結論は出なかったものの、なんとなく全員が一致した意思として次のような標語が出来た。
その一・コレクションの行く末を真剣に考えよう。
その二・これ以上、コレクションを増やすことは止めよう。
まるで中学生のような標語だが、我々にとっては大きな一歩だ・・・・・。