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グッドミュージックをフルコーラスでお届けします♪音楽が一番輝いていたあのころに、青春を過ごした人そして、そんな時代の音楽が大好きな人へお届けする30分です。

竹中晃のコラム ポケットにいつも音楽を入れて -ロック・おやじのつぶやき-

”はっぴいえんど”その後

放送での<はっぴいえんど>特集は全三回をもって終了しましたが、<はっぴいえんど>解散後のソロ活動などについて少々記します。

<はっぴいえんど>は一九七二年に二枚目のアルバム『風街ろまん』をリリースするが、このアルバムで彼らが目的としていた欧米のサウンドと日本語の歌詞の融合による“日本語のロック”を完成させた。しかし、だからといってそれがそのままバンドとしての成功には結びつかなかった。

というのも、前回書いたように当時はブリテッシュ・ロックを中心にして洋楽ロックが百花繚乱の如く充実していた時代であり、また“日本のフォーク”シーンもこれまた優れたシンガーやグループが続々現われた時代だった。そんな時代の中で“日本のロック”は未成熟な存在でしかなく、したがって多くのロックやフォークのファンは日本のロック・バンドについて幾つかのバンド名は音楽雑誌を読んで知ってはいても、結局のところ時間的にも金銭的にも洋楽ロックや日本のフォークを聴くのに精一杯で、日本のロック・バンドにまで関心が持てる状況ではなかった。

したがって<はっぴいえんど>がどれだけクオリティの高いアルバムを出そうと、ごく少数の<はっぴいえんど>ファンは別として、その事を知るロックやフォークのファンはほとんどいないというのが現実だった。

また、一九七十年代初頭の洋楽ロックファンの好みも<はっぴいえんど>には逆風だった。当時、日本でもっとも人気があったのはディープ・パープルやレッド・ツェッペリンに代表されるブリテッシュ・ハードロックのバンドで、その頃の感覚としては“洋楽ロックファン=ブリテッシュ・ハードロック・ファン”と言ってもいいぐらいの勢いがあった。

ブリテッシュ・ハードロックの重量感とスピード感、そして凄まじいまでの歌唱力と演奏力に日本のロックファンは完全に魅了されていた。そしてその結果、『ブリテッシュ・ハードロック以外のロックは認めない!』というようなソリッドな意見を持つファンさえ現われた。

そんなブリテッシュ・ハードロックが絶対的な人気を誇っていた時代にアメリカン・ロックのサウンドを志向する<はっぴいえんど>がウケるはずはなかった。そういう時代だった。

このような状況の中で<はっぴいえんど>のメンバーはバンドとしての役割りを終えたことを感じ、それぞれに“次”を模索し始めるのだが、皮肉なもので<はっぴいえんど>が解散を覚悟したその頃になってようやく“日本のロック”が注目を集めるようになった。

なんとも間の悪いタイミングだったが、こうなるとレコード会社としては彼らを慰留したくなるのも当然で、<はっぴいえんど>は妥協案的に一九七三年に三枚目のアルバム『HAPPY END』をリリースする。そしてこのア
ルバムを最後に解散した。

一九七三年を起点として“日本のロック”はブームを巻き起こし、また“日本のフォーク”は“ニューミュージック”へと進化するなど日本のポップスシーンは変化の時代を迎えた。そしてそんな変化を促す大きな要因となったのが<はっぴいえんど>の元メンバーたちだった。

彼らは豊富な音楽知識と<はっぴいえんど>で得た経験を元に、それぞれにオリジナリティに溢れた活動を展開した。ご承知の方も多いと思うが彼らのソロ活動を簡単に記す。

細野晴臣は“ワールド・ミュージック”という概念が一般的ではなかった七十年代中期に早くも汎太平洋トロピカル風味のアルバムを発表する一方で、鈴木茂と共にサウンド・プロデュースを兼ねたスタジオ・ミュージシャン集団<キャラメル・ママ~ティン・パン・アレイ>を組織してニューミュージックはもちろん、歌謡ポップスの世界にも参入して独自のロック的アプローチによって“歌謡ポップスのサウンド概念”を根本から変えた。

そして一九七九年には坂本龍一、高橋幸宏と共にYMOを結成、テクノ・ポップは世界を席巻し、その後はアンビエント・ミュージックという新たな世界を提示するなど、まさに“クリエイティヴの人”に相応しい活動を行っている。

近年は原点回帰的にアコーステックで枯れたヴォーカルを聴かせてくれているのだが、これがまた“らしく”て、良い。

大滝詠一はCM曲作りの場を自らのサウンドの実験室として活用しながら、アメリカン・ポップスを下敷きとした個性的でユニークなサウンド“ナイアガラ・サウンド”を創り上げた。その成果として一九八一年に名盤『ア・ロング・ヴァケーション』を発表、ミリオンセラーを記録している。

他方、作曲家としても歌謡ポップスシーンに多くの名曲を提供しているほか、ポップス史研究家としての評論活動に加えてトニー谷や東京ビートルズなど歴史に埋もれたポップスの発掘作業などを行って高く評価されている。

<はっぴいえんど>の理論面でのリーダーともいえる松本隆はミュージシャンではなく、作詞家として歌謡アイドル・ポップスという異ジャンルに飛び込み、<はっぴいえんど>で展開した“松本美学”とでもいうべき世界観を歌謡曲のフィールドで表現した。

松本隆のヒット曲は数多あるが、なかでも松田聖子へのプロデューサー的な関与とその成功は偉業と呼ぶに相応しい。

また、松田聖子の例で顕著なように、歌謡ポップスの世界に多くの友人たち―細野、大滝、松任谷由実などのニューミュージックの実力者―を引き込んで曲提供を促したことで異質だったニューミュージックと歌謡ポップスを結び付け、結果として歌謡曲の活性化をもたらした功績はあまりにも大きい。

そしてビートルズにおける“ジョージ・ハリスン的ポジション”と評されることも多い鈴木茂だが、彼の、まさしくワン&オンリーなギタリストとしての技量によって、多くのアルバムに色彩感を与えている事実はもっと評価されても良いのではないだろうか。

と、ざっくり書いても<はっぴいえんど>の元メンバーたちはこれだけ創造的なソロ活動をおこなっている。そしてこのようなクオリティの高い仕事に比例して彼ら個々人の名声は次第に高まった。

やがてそんな四人への賞賛はこれまで半ば埋もれていた<はっぴいえんど>の再評価へと繋がった。それが一九八十年代初頭あたりだったと思う。

そして今、<はっぴいえんど伝説>は時代を超えて<はっぴいえんど・チルドレン>や<はっぴいえんど・孫世代>といった後継ミュージシャンを生み出すに至っている。

それにしても四人四様の個性的なソロ活動と、その原点となった<はっぴいえんど>の時代。バンド時代は恵まれているとは言い難い状況だったが、彼らが一九七十年代初頭に提示した“日本語のロック”が当たり前のこととして日本のロックやポップスの中に取り入れられている以上、彼らの伝説が色あせることはない。

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