ロックの“熟成”―クラプトンのアルバムを聴いて思うこと

この春、エリック・クラプトンが新しいアルバム<オールド・ソック>をリリースした。「相変わらずクラプトン、元気じゃないか!」とそれはそれで嬉しいことなのだが、その収録曲を巡ってファンの間で意見が割れているという。気になって収録曲を見てみると全十二曲のうち新曲が二曲、あとは「オール・オブ・ミー」など往年のジャズの名曲をはじめとしてスタンダード・ナンバーやカントリーなどのカヴァー曲が並んでいる。
正直言うと最近のクラプトンはあまり聴いていないのだが、ここまでカヴァー曲が多いとは思っていなかったのでけっこう驚いた。で、割れているというファンの意見をいろいろ探してみると、「年相応で、悪くはない」「渋くてカッコいい」「こんなクラプトンは聴きたくなかった」「枯れ過ぎ・・・」などなど。
いい具合に意見が分かれているので面白いと思って私も何人かのクラプトン好きの友人たちに尋ねてみたら、これまた上記の意見同様に感想が割れた。
結局のところ、この手の話は好きか嫌いかということに尽きるのだが、それにしても最近の流行なのか、今回のクラプトンのようにロック・ミュージシャンがジャズやポピュラーのスタンダード・ナンバーをカヴァーしたCDがけっこうリリースされていて売れているようだ。当然、買うのはCD離れしていない世代だろう。
思い起こせば、このようなロックのスーパースターによるスタンダード曲のカヴァーCDがリリースされるようになったのは、おそらく2002年にロッド・スチュワートがリリースした『アメリカン・ソングブック』あたりからだったと思う。そういえばこのCD、よほど好評だったようでシリーズ化されている。
このような趣向のアルバムというのは洋の東西を問わず以前からあって、そう珍しいことではない。つまり、功成り名を遂げたベテラン歌手がオリジナル・アルバムの合間に、ちょっと異種格闘技的にジャンルを越えて様々な歌を唄ってみました!という“箸休め的”な企画で、アルバムのタイトルも『○○○、ジャズを唄う』とか『○○○、映画主題歌を唄う』などとつけられていることが多い。
そしてそういった性格のCDだけに、唄う方も気楽というか、うまく力が抜けている場合があって、これがかえって“瓢箪からコマ”的に出来がいいこともあったりするので案外侮れない。先述のロッドの例など、まさにそれだろう。
一九六十年代や七十年代のロックの時代の混沌と混乱を乗り越え、酸いも甘いも良いも悪いもすべて舐め尽くしてきた歴戦のロック・スターが、年を重ねて渋い声でジャズやスタンダードの名曲をじっくり唄うというのは悪くない。ロックが熟成を果たした何よりの証明だと思うと感慨深くさえもある。
ではなぜ今回のクラプトンのCDを巡ってファンの意見が分かれたかと言うと、思うにこれは、ファンそれぞれがイメージする“エリック・クラプトンの現役感の捉え方の差”が出たのではないだろうか。
六十年代のCREAM時代からギンギンにギターを弾いてきたクラプトンが好きなファンにとっては、スタンダードのカヴァー曲を“大人の雰囲気”で“肩の力を抜いて”演奏するクラプトンというのは“老いたクラプトン”を見る様で辛いという感覚がある。
つまり、ギター小僧として憧れの存在だったクラプトンには体力と気力が続く限り、いつまでも速弾きのギタリストでいてもらいたい、と。
そう思う心理の裏側には、クラプトンが“バリバリのクラプトン”で居続けてくれることで、それなりの年齢になってしまった自分たちも“いつまでもギター小僧で居ることが出来る”、という想いがある。
だからこそ、“年寄り染みて聴こえる”スタンダード曲のカヴァーCDは出来るなら止めてほしいと、こう思わずに入られないのだ。
そしてそんなファンがいる一方でカヴァーCDを聴いて「クラプトンの大人のリラックス感が心地いい」と思うファンがいるわけだ。こう思えるクラプトン・ファンはすでにそこのところ、つまり“老いたクラプトン”を割り切ってしまっているか、あるいは一九八十年代以降の“歌も上手くてギターもすこし上手いクラプトン!”のファン世代ということなのだろう。
まあ厳密に言うと、CREAMからのファンか、「レイラ」辺りからのファンか、七十年代後期からのファンか、というところで区分しなければならないのだが―。
言うまでもなく私は初期のファンなのでこのCDは推しませんが、ただ、飲み会の流れで入った小さなバーでさり気なく流れていたら案外良いと思うかも知れない。人間は勝手なものなので。